理不尽な結婚に苦しんでいた人妻の汀女を連れて、故郷の豊後岡藩を出奔した幹次郎は、女仇討の追手に追われ、十年の流浪の旅の末、江戸・吉原に流れ着く。
廓を統括する吉原会所の四郎兵衛に剣の腕を見込まれ、幹次郎は廓で起こるトラブルを解決する「吉原裏同心」となる――。
理不尽な結婚に苦しんでいた人妻の汀女を連れて、故郷の豊後岡藩を出奔した幹次郎は、女仇討の追手に追われ、十年の流浪の旅の末、江戸・吉原に流れ着く。
廓を統括する吉原会所の四郎兵衛に剣の腕を見込まれ、幹次郎は廓で起こるトラブルを解決する「吉原裏同心」となる――。
十歳か十一歳の夏の朝のことだ。堀川沿いの一軒の店の戸口に朝刊を押込もうとすると、シュミーズ一枚の若い女と工員風の男が絡み合うように姿を見せて、抱き合って別れの挨拶をした。
女の白い肌に幻惑されて目がちらつき、堀川から饐(す)えたどぶの臭いがする店の前で少年はうつむいたまま竦んでいた。
一夜をなじみの娼婦と過ごした嫖客がそそくさと駅へ姿を消した。
「兄(あん)ちゃん、大きくなったらうちんとこへ遊びにこんね」
と女がいうと少年の手からインクの臭いがする朝刊を摑(つか)んで店の中に姿を没した。
少年は、鹿児島本線と筑豊本線が交わる八幡市折尾(現・北九州市)という町で育った。実家が新聞販売店であったために物心ついたころから新聞配達を課せられた。そんな最中の出来事だった。
この出来事から数年後、昭和三十三年四月一日をもって売春防止法が施行され、全国で業者三万九千軒、従業婦十二万人が廃業して消えた。むろん、少年は、淫靡で魅惑的な家に上がることはなかった。かくて古より連綿とお上が許し、黙認してきた悪所が消えた。
私がえがく官許の遊里吉原は理想化した想像の産物に過ぎない。吉原が苦界であった事実は、多くの資料が示している。にも拘らず私だけではなく多くの作家がなぜ吉原を夢の場所だとして描き、描かれるのか。
御免色里と江戸でただ一カ所許されたのが吉原だ。徳川幕府の開闢とほぼ時を同じくして千代田城近くに営業を許された。
だが、明歴三年の大火の後、江戸の大規模な町づくりが行われ、吉原も浅草田圃に移転を余儀なくされた。
吉原と言うとき、旧吉原時代と浅草に転じての新吉原時代の二つに分かれる。
それなりに資料を読んだが、わずか東四百八十間、南北百三十五間の方形の二万七百六十七坪の世界が具体的に浮かんでこない。そこで遊里吉原に一組の夫婦者、神守幹次郎と汀女を関わらすことによって、私なりの吉原絵図を探謀できないかと考えたのが『吉原裏同心』だ。
吉原はただ男の欲望を満たすだけの場所ではなく、化粧、衣装、文学、華道、香道、茶道、歌舞音曲とあらゆる流行の発信基地であったという事実だ。ために松の位の太夫と呼ばれた遊女の見識、教養は当時の女性の中でも群を抜いていたそうな。
とはいえ、二万余坪には光も闇もあった。大籬と呼ばれた大楼もあれば、羅生門河岸などという間口三尺ほどの切り見世もあった。
いわば江戸の縮図が吉原にあると私は考え、自分なりの吉原を描いていこうと思った。
官許の遊里である以上、吉原は江戸町奉行が監督した。だが、実際に自治と治安を司ったのは吉原会所という吉原衆の組織だ。この会所の用心棒を亭主の神守幹次郎が請け負い、年上女房の汀女が遊女たちに読み書きから教養百般を教えつつ、遊女たちの不満不平を探る密偵方とした。
だが、幹次郎と汀女の真の願いは、吉原の秩序と仕来たりを順守しつつ、その中でけなげに生きる遊女たちの命と暮らしを守ることだ。
真っ白なシュミーズにときめきを感じた少年の永遠の夢は、馬喰町の煮売り酒場の小僧竹松に托されている。竹松が一文二文と銭を貯めていつの日か吉原の楼に上がる宵、六十年も前の少年の夢も成就するのだ。
流離吉原裏同心(一)
足抜吉原裏同心(二)
見番吉原裏同心(三)
清掻吉原裏同心(四)
初花吉原裏同心(五)
遣手吉原裏同心(六)
枕絵吉原裏同心(七)
炎上吉原裏同心(八)
仮宅吉原裏同心(九)
沽券吉原裏同心(十)
異館吉原裏同心(十一)
再建吉原裏同心(十二)
布石吉原裏同心(十三)
決着吉原裏同心(十四)
愛憎吉原裏同心(十五)
仇討吉原裏同心(十六)
夜桜吉原裏同心(十七)
無宿吉原裏同心(十八)
未決吉原裏同心(十九)
髪結吉原裏同心(二十)
遺文吉原裏同心(二十一)
夢幻吉原裏同心(二十二)
狐舞吉原裏同心(二十三)
始末吉原裏同心(二十四)
流鶯吉原裏同心(二十五)
佐伯泰英
「吉原裏同心」読本光文社文庫編集部編